ジョン・スミス(英:John Smith、1580年?1631年6月21日)はイギリスの軍人、船乗りおよび著作家である。現在のアメリカ合衆国バージニア州ウィリアムズバーグ市内に北アメリカでは最初の恒久的植民地となったジェームズタウンを建設した。スミスは先住民族ポウハタン族のポウハタン酋長との諍いの間に、酋長の娘ポカホンタスと短期間だが交流があったことでも知られている。スミスは1607年から1609年まで、ジェームズタウンを本拠とするバージニア植民地の指導者であり、バージニアの多くの川やチェサピーク湾を探検した。
スミスの書いた本はその業績と同じくらい重要であった。イギリスの多くの男女がスミスの切り開いた道に従って新世界に渡り開拓者となった。スミスはアメリカ北東部も探検してその地域にニューイングランドという名前を付けたことでも知られている。その時のスミスは「ここならば誰もが自分の思うところに従って働き土地の所有者になれる。...もしその働く手しか無いにしても、...勤勉に働けば直ぐに金持ちになれる」と言って人々を励ました。これが力強いメッセージとなり、続く4世紀の間に何百万人もの人々をこの地域に引き寄せることになった。
ジョン・スミスはイギリスのリンカーンシャー州アルフォードの町近くウィロビーで洗礼を受けた。スミスの両親はそこでウィロビー卿の小作農であった。スミスはラウズのエドワード4世グラマー・スクールで教育を受けた。スミスは父親の死後16歳で家を出て船乗りになった。
スミスはフランス国王アンリ4世がスペインと戦ったときに傭兵となり、後にはオスマン帝国とも戦った。1600年から1601年、ワラキア(現在のルーマニア)の公子ミハエルが軍を起こしたとき、ハンガリーのハプスブルグ家に付いて戦い大尉に昇進した。ミハエルの死後、ワラキアのラヅ・セルバンに付いてモルダヴィアのイエレミア・モヴィラと戦ったが、1602年に負傷し、捕らえられて奴隷に売られた。スミスは後に、トルコ人がスミスと恋に落ちた恋人のところへの贈り物として彼を送ったと主張した(おそらくスミスは短期間家庭教師をしており、長期にわたる身代金を払ってくれる人を望んでいた)。スミスはクリミアに連れて行かれ、そこからオスマン帝国の領土を脱出してモスクワ大公国に逃れ、続いてポーランド・リトアニア連合に入った。さらにヨーロッパや北アフリカを旅し、1604年にイギリスに戻った。スミスが捕虜になる前に、トルコの指揮官と3度決闘を行い3度とも相手を倒し殺していた。このことでスミスはトランシルヴァニアの公子シギスムント・バソリーからナイトに叙せられ馬を与えられた。
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